竹内結子さんの幼少期の家庭環境が複雑だったと話題になっています。
幼い頃に両親が離婚し、父親に引き取られた竹内さん。
実母をがんで亡くすという痛ましい過去も。
竹内結子さんの幼少期の家庭環境についてまとめました。
竹内結子の幼少期の家庭環境まとめ
竹内結子さんは、両親の離婚と再婚を経験しています。
また、実母をがんで亡くすというとてもつらい経験も。
竹内さんの幼少期の家庭環境を時系列で見ていきましょう。
小学校時代
1980年4月1日に誕生した竹内結子さん。
3姉妹の末っ子として生まれ、家族の愛情を受けて育ちました。
ただ、父親は「言うことを聞かなければ鉄拳制裁も辞さない」という“昭和のお父さん”だったそう。
今では珍しい光景ですが、子供のためを思って、あえて厳しく接していたのでしょう。
母親も子供には「泣いても状況は変わらないのよ」と諭していたことから、3姉妹は芯の強い子に育ちました。
しかし、幼心に厳しい教育はつらかったのでしょうか。
竹内さんは小学校低学年で家出騒動を起こします。
自分は「ここにいてはいけない」と感じ、突発的に家出を決行するも、すぐに不安になり泣いていたところ、近所の人に見つけてもらい未遂に終わりました。
そんな竹内さんの心の支えは、母方の祖母でした。
祖母は末っ子の竹内さんをとてもかわいがり、竹内さんも小学校から帰るとランドセルを置いてすぐに祖母の家に向かうほど、おばあちゃん子でした。
中学時代
父親の仕事の関係で、小・中学校時代は埼玉県内の学校を転々としていた竹内結子さん。
中学時代は、竹内さんにとって大きな悲劇がいくつも襲う激動の時代でした。
母親のガンが発覚
竹内さんの母親がガンであることが発覚。
母親は玄米に無農薬野菜を使った料理を作るなど、家族の食事に気をつける人でしたが、ガンになった後は思うように動けなくなりました。
竹内さん姉妹は、必死に看病を続けたそうです。
両親が離婚
母がガンになって弱っていく姿を見るだけでもつらいですが、さらない悲劇が竹内さんを襲います。
それは、「両親の離婚」でした。
しかし、両親は離婚後も同居を続けていたため、周囲には離婚したとは知らない人も多かったようです。
父親がガンになった母親を気遣ったからのか、理由はわかりませんが、一緒に住んでいても、戸籍上は家族でなくなったことは、竹内さんにとってとてもつらかったでしょうね。
14歳で母を亡くす
1994年、竹内さんが14歳のとき母親が亡くなりました。
高校時代
母の死後、心に大きな穴があいていた竹内さんでしたが、翌年転機が訪れます。
原宿でスカウト
中学校を卒業した春休みに、原宿でスカウトされ芸能界入り。
そのときのことを竹内さんは「自分は必要とされることがただうれしかった」と語っています。
父親が再婚
同じ頃、父親が再婚。
母親と死別した翌年だったため、竹内さんは心の整理がつかなかったでしょう。
再婚相手には男の子3人の連れ子がいたため、6人兄弟の8人家族に。
急激な環境の変化に、竹内さんは大きな戸惑いを隠せず、家に帰らず祖母の家に寄り付くようになったそうです。
そして、高校卒業後には東京で一人暮らしを始め、実家を離れることになりました。
竹内結子は実母と死別していた
竹内結子さんは、14才のとき実母と死別していました。
このことが、後に竹内さんの決断に大きな影響を及ぼすことになります。
竹内さんは、2005年に歌舞伎俳優・中村獅童さんと結婚し長男を授かるも、2008年に離婚。
獅童さんの母親は歌舞伎界の跡継ぎとして親権を欲しがりましたが、竹内さんは「実母と会えずに寂しい思いをした」自身の経験から、シングルマザーの道を選ぶことに。
歌舞伎界の跡取りとして獅童の母は長男の親権を欲しがっていましたが、幼い日に実母と別れて会うことができなかった竹内さんは、『私がひとりで立派に育てます』と、シングルマザーの道を選んだ。
彼女は芯がしっかりしていて、一度決めたら行動に移す性格です。しばらく長男と2人暮らしでしたが、家族のことを話すときは『竹内家では』と話していた。自分は一家のあるじだと、大黒柱なんだと自負しているかのようでした。
お子さんの食事はなるべく自分で作るようにしていて、旅先でもキッチン付きの宿を借りて、息子に料理を作ってあげていた。教育にも熱心で、親子2人で台場にある日本科学未来館に行ったりして寄り添っていました。
(引用:文春オンライン)
長男には「自分と同じ思いをさせたくない」という思いから、あえて茨の道を選んだ竹内さん。
実母と死別した寂しさはとても大きいものだったのでしょう。
両親の離婚後も、実母と気軽に会える関係だったとしたら、このような発言や行動にはなっていないと考えられます。
お受験にも成功し、長男は名門・青山学院に進学しました。
竹内さんは、自分の子供に、自分がしてほしかったことを精一杯してあげたのでしょうね。
竹内結子は父の再婚で孤独も感じていた
竹内結子さんは父親の再婚により、新しい家族ができましたが、その環境にはなかなか馴染めなかったようです。
1999年に出版された小説『サーフ・スプラッシュ』の解説文の中で、「父に連れ子という荷物がいることを面倒に感じられたくなかった」と明かしています。
- 帰る家は暖かい家庭そのものに見えたが、カギのかかった空間がいくつもあるような場所だった
- 父が必要とした女の人が、彼女の子供たちのために食事の支度をしている
- 晩の食卓の賑やかな景色が、私にはガラス越しのものに見えた
- 私は父に人生を好きに生きてくれたらいいと思っていた。
連れ子という荷物がいることを面倒に感じられたくなかったのだ。
新しくできた母親や姉との関係を築くために、時間がかかるのは想像できますよね。
ただ、血の繋がりのある父親に対して「父が必要とした女の人」と遠く感じるような表現をしたり、自分のことを「連れ子という荷物」と邪魔者のように扱う表現を使っているのが気になります。
「父には自分の人生を生きてほしい」と父を気遣う一方で、自分の居場所がなくなる切なさも感じていたのかもしれません。
父親の再婚は、皮肉にも竹内さんの孤独感を強めてしまった可能性がありますね。
幅広い世代から愛された女優・竹内結子さん。
天真爛漫な笑顔の裏には、つらい過去もあったのですね。
竹内結子さんの幼少期の家庭環境についてご紹介しました。